アミのひとり言

事務所のアイドル犬アミのひとり言です。

箸墓古墳は卑弥呼の墓か?

奈良県桜井市の箸墓(ハシハカ)古墳が邪馬台国の女王・卑弥呼の墓、その近く天理市の西殿塚(ニシトノヅカ)古墳が卑弥呼の養女で後継者・壱与(イヨ)又は台与(トヨ)の墓という説がある。邪馬台国畿内説に基づくもので、やがて邪馬台国から大和朝廷に発展したと考える。一方の邪馬台国北九州説によれば、卑弥呼の勢力は九州地方に留まり、畿内大和の連合国家である原大和国家が、そのまま進歩・発展して大和朝廷になったと考える。この説では卑弥呼大和朝廷の関係は一切ないことになる。

では箸墓古墳西殿塚古墳は誰のものか。宮内庁は、箸墓古墳を第7代孝霊天皇(紀元前342-215年、128才没)の皇女・倭迹迹日百襲姫(ヤマト・トトヒ・モモソヒメ)、西殿塚古墳を第26代継体天皇(450-531年、82才没)の皇后・手白香皇女(タシラカノヒメミコ)の陵墓として管理しているが、これはありえない。出土遺物の分析により箸墓は3世紀後半、西殿塚は3世紀末の築造とされているからだ。このような非科学的根拠に基づき、正々堂々と宮内庁が、これらの陵墓の静安と尊厳を保つ必要があるため立入禁止、として管理すること自体間違っている。これは国民の文化財だ。

わが国の歴史を正しく理解することは国民固有の権利であり、宮内庁にそれを阻止する権限は一切ないはずだ。卑弥呼の死亡時期は、魏志倭人伝などの文献によって、3世紀中頃の247/248年、箸墓の築造時期とぴったり合う。同じ魏志倭人伝によれば、卑弥呼が死んだ時造られたの墓のサイズは「径百余歩」(≒150m)、箸墓の後円部の大きさは約160mと誤差の範囲。日本中の弥生の墳丘墓中最大規模であるから卑弥呼の墓と想像したくなる。(西殿塚後円部は145m)

もともと初代神武天皇(紀元前711-585年、127才没)から第16代仁徳天皇(257-399年, 143才没)まで皇室の記録はでたらめばかりだ。お釈迦様(Gotama Siddhattha、紀元前463?-383?年)より我が国の初代天皇の方が古いのだなどと歴史を創作するから外国から信用されないだけでない。初代から第16代天皇まで天皇は16人、第14代と第15代の間に摂政の神功皇后(170-269年、100才没)が一人いるとして、合計17人の皇室の代表者(当時は「王」とか「大王」の呼称だったらしい)がいたことになっているが、彼らの平均寿命は110才(最長寿は仁徳天皇の143才)となっている。これは絶対に嘘だ。

先月2月20日宮内庁の許可を得て、日本考古学協会など15学会の16人が箸墓古墳西殿塚古墳の立入調査をした。宮内庁が許可したのは、墳丘の下段を歩いて観察することだけで、土器の散乱状態は確認できても遺物の採集や発掘は禁止。それでも各学会代表の研究者が箸墓古墳に入り、墳丘の形状などを直接観察できたことは正しい歴史認識に一歩近づく。これらの古墳を宮内庁管轄から文科省管轄に移して研究者にもっと自由に調査してもらえば、邪馬台国卑弥呼の歴史も含め、正しい歴史認識に到達できるはずだ。