アミのひとり言

事務所のアイドル犬アミのひとり言です。

150年前の日本を見た英国人の手紙

丁度150年前の今日(文久2年=1862年9月14日)午後2時半頃、上海から英国に帰る途中日本に立ち寄った英国人商社マンが横浜で無礼者として斬り殺された生麦事件が発生した。当時の日本はまだサムライが支配する江戸時代末期。自家用車ならぬ馬を借りて、横浜で商売をしていた仲間の英国人商人らと4人で川崎大社まで観光旅行の途中、生麦村(現在の横浜市鶴見区)で運悪く薩摩藩のCEO島津久光(藩主の父)の行列に出くわしたが、馬から降りて地面にひれ伏すという礼を失したことで、薩摩藩士に無礼打ちにされた。行列は400名ほどの軍勢で狭い道を道幅いっぱいに広がっていたから、正面から向かってきた騎馬の英国人4人は行列の中を逆行するように進んだ。先頭の薩摩藩士たちは身振り手振りで「馬から降りて道を譲れ」と合図したそうだが最初は「わきを通れ」、次は「引き返せ」と合図されたと思い方向転換した途端に藩士2人に斬り付けられた。

この悲劇の主人公Charles Richardson(28才)は馬に乗ったまま肩から腹へ斬りつけられ、臓腑が飛び出すほどの重傷を負うも、なんとか馬にしがみつき1kmほど馬を走らせるが、間もなく力尽きて落馬し追いかけてきた別の藩士にとどめを刺された。他の2人の英国人紳士(Woodthorpe Clarke=28才&William Marshall=35才)も背中・腕など斬りつけられ重傷を負うが、致命傷に至らず、かろうじて馬を走らせ米国領事館(本覚寺)まで逃げ切った。唯一の女性Mrs. Margarette Borrodaile(28才、横浜へ観光に来ていた香港在住英国人商人の妻で、Marshallのいとこ)も帽子と髪に一撃を受けたが、なんとか無事横浜の居留地へ駆け戻った。日英修好通商条約による治外法権により、当時の英国人は横浜居留地を中心として10里四方の遊歩は自由とされており、日本の国内法で無礼討ち(斬捨て御免)が合法であったとしても、大名行列に対する英国人の不作法に対して適用されるべきものではない。ましてや、武器を持たない民間の異人を野蛮にも斬り殺し最後は首まで刎ねて遺体を草むらに放置するとは文明国にあるまじき行為と、英国側は薩摩の殺傷行為を「excessively cruel, barbaric, and dishonorable(極めて残酷、野蛮、破廉恥)」と表現している。

今は横浜外人墓地に眠るRichardsonには姉妹が3人いたが、長姉のひ孫にあたるMichael Wace氏(83才、元編集長)がRichardsonから家族宛に来た手紙類を最近ロンドンの自宅で発見、そのうち日本に言及している18通が現在(10月21日まで)横浜開港資料館で公開されている。Richardsonは1862年7月に来日、しばらく日本で観光をして9月末か10月には英国に帰国する予定だった。来日前、上海からの手紙には「日本は大きな貿易国になる」と日本に大きな期待を寄せ、来日後の手紙には「山や海の景色は抜群で、日本は私が訪れた最高の国」などと日本の印象が書かれていた。

大名行列に遭遇したら下馬してひれ伏すという日本のしきたりを知らなかった外国人には生麦事件は理解し難い暴挙で、原因不明の異人殺傷事件の責任を認めた幕府は、英国から要求された賠償金10万ポンドを支払ったが、薩摩藩は要求された賠償金2.5万ポンド(≒6万300両、現在価値約20億円)の支払い、犯人引き渡しと陳謝を拒否したため、翌年の薩英戦争(薩摩の完敗)に発展する。ボロ負けした薩摩は英国の実力を思い知り、その後は英国の力を借りて徳川幕府を倒し、我が国は生麦事件から6年後の1968年、明治維新を迎える。

この貴重な手紙を残してくれたRichardsonが斬殺されていなかったら薩英の協力もなかっただろうし、その後の明治維新もなかったか、それとも別の時点で別の形で明治維新のような事件が発生していたのか、犠牲者の末裔は思いを巡らせているそうだ。

*なお薩摩藩は薩英戦争で負けたので英国に賠償金を払う羽目になったが資金がなく、徳川幕府からの借り入れで6万300両支払った。しかしその5年後には幕府が潰れてしまい、結果的に薩摩藩は借金を踏み倒したことになる。薩摩は英国に陳謝はしたが「逃亡中」として実行犯の引渡しはしないで済んだ。