アミのひとり言

事務所のアイドル犬アミのひとり言です。

関東大震災後の仮設住宅

1923年9月1日の関東大震災は死者・行方不明者105,000人(東京だけで7万人)、被災者190万人というからそれはすさまじい惨状だったに違いない。被災者は倒壊・火災を免れた社寺・学校だけでは到底収容しきれず、陸軍のテントや、市が建てた収容バラックなどで雨露をしのいだそうだ。それでも時間がたつにつれ治安が悪くなりある程度まともな仮収容所も建てられた。その中の一つが東京都中野区上高田2-8-16にあった仮収容所で、後に東京外大の学生寮「日新寮」として1976年に解体されるまで使われてきた。僕は1968年ここの寮生になり1973年に大阪で就職するまでの5年間この学生寮で暮らした。震度3-4程度で倒壊しそうな木造平屋建ての古い建物で50年も利用しようとは想定していなかったと思う。入口から薄暗い廊下を通って自分の部屋に着く。廊下の両側に16畳の部屋が23か24あった。学生は6人部屋だが、震災後は恐らく1部屋1家族単位で暮らしていたのだろう。この建物の中で23~24家族が調理場、洗濯場、トイレなどを共用で使っていた。この向かいには銭湯があったから建物内には風呂・シャワーはない。もちろん冷暖房もないから冬はたくさん服を着て寝る者もアルコールをたくさんあおって寝る者もいた。一部の富裕層はこたつを持っていたが富裕層が増えると全館の電気が切れるので我ら非富裕層にとっては迷惑な現象だった。各部屋には隅は4か所しかなく、先輩は4隅に机を置いて一人分の3畳を陣取っている。新入寮生には隅がないので先輩と先輩の間のわずかなすき間に机を置かせてもらう。理論上一人3畳ではあっても奥に住みつく先輩は入口から他の寮生の敷地を通路として通らなければならないから、新入寮生は通路を提供すると一人3畳のスペースはない。机を置いて布団を敷くとそれだけでいっぱいになる。こんな生活やってられないと早々と寮を出て下宿するやや裕福な学生もいたが、社会に出れば荒波にもまれる人生が待ち受けていいるのだから大変貴重な体験をさせてもらった。ヨーロッパ貧乏旅行で一泊250円の安宿に泊まる勇気も出て、同じ予算でたくさん旅行できたのもこの学生寮で訓練されたからで、安宿代すらケチって夜行列車でぐっすり眠ることができたのも、すべて元避難民仮収容所体験のおかげだ。今回の東日本大震災津波で家を流され、やっと昨日避難所の体育館から石巻仮設住宅に引っ越しできたというAFSの同期生がいるときいた。中学校の体育館で見知らぬ人200人と寝食を共にして5か月というのは、関東大震災後の当時の人々の苦痛と同じようなものではないか。一刻も早く、引っ越しできた仮設住宅で今後の生活の基盤を築いて元気を出してほしい。そしてこの世で再会できるんを楽しみにしています。

日新寮写真集(日新寮の先輩梅津国夫氏作成)http://picasaweb.google.com/umetsukunio/QtOBYD#