アミのひとり言

事務所のアイドル犬アミのひとり言です。

部下の特攻を死刑覚悟で拒否した上官

今年は戦後70年、敗戦だけは避けようと軍部が考え出した作戦が捨て身の体当たり戦法だ。かつて蒙古が日本に攻めてきたときに、軍事的には圧倒的に優位であった蒙古海軍が運悪く負けたのは台風にやられたためだ。神風が日本を救ったと思われた。この神風なかりせば、日本はその後蒙古・中国の属国になっていたはずだ。第二次世界大戦末期の194410月、大西瀧治郎海軍中将は神風特攻隊を編成した。もう敵を負かす可能性はほとんどないとみたこの中将は、部下に死所を与えるのは主将としての役目であり、大愛であるとの考えの持ち主だ。
 
神風特攻隊と呼ばれた航空特攻で命をなくした者は4,000人ほど。既に多くの熟練パイロットが撃ち落され、学徒出身の若者を短期間でにわかに訓練するしかなかった。通常、海軍航空隊パイロットの平均飛行訓練時間は600時間だったが、終戦間際には30時間ほどの飛行訓練時間で任務に就いたというから、本当に破れかぶれ、捨て身の戦闘作戦としか言いようがない。当初、特攻に使われた機種は零戦と言われた零式艦上戦闘機、しかし1度の攻撃で機材も命もすべて失うから、補充する時間がない。例え時間があったとしても資金もない。そこで司令部は、練習機を改造したもので敵艦隊めがけて特攻せよと命じた。でも、米軍のレーダーも性能が向上してきて、事前に練習機など見つけて撃ち落す。まともな戦闘機・爆撃機も被害を受けて数は少なくなり、熟練パイロットもわずかしか残っておらず、命中率は1割以下とその効果には大いに疑問があるところだった。それに比べて搭乗員の運命は十死零生、死刑宣告である。
 
19452月、沖縄戦に向けた作戦会議に大西中将を含む80名ほどの指揮官が参加、性能が劣る練習機まで駆り出す全軍特攻の方針が確認された。異論を述べる者は誰もいないと思ったら、唯一、最下位の海軍航空部隊指揮官、美濃部正少佐(当時29才)が、自分の航空隊は特攻に出さないと命令を拒否した。特攻は確実に戦闘機とパイロットが犠牲になるが、自分の部隊の得意な夜襲作戦は、命中確率がはるかに高く、しかも戦闘機は何度も使えて、パイロットの生還率もかなり高い。現場の兵士は誰も死を恐れていません。ただ、指揮官には死に場所に相応しい戦果を与える義務があります。練習機で特攻しても十重二十重と待ち受けるグラマンに撃墜され、戦果をあげることができないのは明白です。バッタのように撃ち落されます。」と反対論を述べた。「生還率ゼロの命令を出す権利は、指揮官といえども持っていない。」「この世で罪人以外は自らの命を他人に命じられて失うことはおかしい。」との持論も述べた。当時の軍上官の命令は天皇の命令、背くことは「抗命罪」に問われ極刑に処される。美濃部少佐は死刑覚悟で、夜間攻撃に特化した自分の部隊の有効性・合理性を訴え、部下の特攻を拒否したのだ。彼の航空部隊は「芙蓉部隊」といって、その能力の高さは敵米軍が最も恐れていたという。司令部は後日、芙蓉部隊を特攻作戦から除外する異例の判断を下し、芙蓉部隊は終戦まで大活躍をした。戦闘機150機、搭乗員700-800人の陣容で、犠牲になったのはわずか100人ほどだったという。
 
大西中は、終戦の翌816日自殺したが、美濃部少佐は、戦後、航空自衛隊で活躍、1969年、54才で航空自衛隊幹部候補生学校長を歴任、航空自衛隊空将で退官、1997年、82才で亡くなった。美濃部氏は、自分の命を懸けて部下の命を守った上官であった、と歴史に刻まれている。