アミのひとり言

事務所のアイドル犬アミのひとり言です。

富士山頂でコシヒカリ

インドとチベットに挟まれた国NepalMustangという地域がある。2008年までは小さな大国だったが、その後Nepalの一部になったようだ。人口15,000人くらい、ヒマラヤ山脈の北側にあるチベットの秘境Mustangは、標高3,0004,500mの高冷地で、毎秒1020mの強風が1年中、昼から夕刻まで吹き荒れ、しかも、年間降雨量は100150mlという超乾燥地帯、世界でも希に見る、農業に不向きな土地だった。当然、まともな食料もなく、人々は、めったに白米を口にできない。ヒンズー教徒は、もとより牛・豚・鶏の肉を忌み嫌うので、たまに食べることができる肉はヒツジやヤギに限られる。魚もない。栄養も偏り、平均寿命は45才だった。
 
このMustangで、飢えと寒さに苦しんでいる人々を助けたいと、約40年にわたって半生を捧げている日本人が紹介されていた。元新潟大学農学部助教授、近藤亨氏(94才)だ。最初は、JICA国際協力事業団)の果樹栽培専門家として派遣され、15年現地で指導をした。JICA70才で定年退職してから、今度は、先祖伝来の家屋敷や山林などを売り払い、自費で単身Mustangに渡り、貧しい人々のために高地でコメ作りに挑戦した。
 
元々Mustangは高地のためコメはできない。人々は裸麦、ライ麦、ソバなどを主食にしている。日本一の水稲王国新潟で育った彼は、高度2,750mの高地で稲作に挑む。日本でも標高1,000m限界だが、試行錯誤の末、高度2,750mでは、出穂期に15度以下に気温が下がると実がつかないことを突き止めた。彼はビニールシートをかけて風速1020mの強風でもそのビニールシートが飛ばないように竹で固定し、ビニールシートの下は朝でも水温が20度となる環境を整えた。すると、見事な黄金の稲穂が立ち並んだのだ。19969月、初めての稲刈りをした。
 
その後、ほぼ富士山並みの標高3,600mの高冷地での稲作に挑戦した。強風でビニールシートは使えず、水田の側面を厚さ60cmの石垣で囲い、屋根に透明なポリエステルパネルを張って、温室の水田を作ると、温度20度以上を確保できた。ここで植えたコシヒカリは、石垣ポリパネル温室による保温力で、それまでのビニールよりも稲の草丈も優り、収量は10アール当たり600kgと驚異的な数量になった。Nepal平野部の水田地帯に比べて、50%ほど多い収量だという。これでMustangの人々は、米を毎日食べることができるようになった。
 
石垣ポリパネル温室で、各種の野菜もでき、真冬でも冬野菜を作って、新鮮な状態で食べることができるようになった。魚の養殖も教えた。彼のおかげで人々の食生活は非常に豊かになった。Nepal政府はこうした彼の功績をたたえ、2013年、同国最高栄誉となるスプラバルジャナセワスリー1等勲章」を贈った。外国人の受賞は初めてだ。94才になる今も彼はMustangに骨を埋めるつもりで活躍している。立派な日本人がいたものだと感心する。